本門法華宗の大本山。開基は日像上人。
永仁2年(1294)、柳屋 仲興入道 妙蓮法尼が、日蓮聖人のご遺言により入洛された日像上人に帰依して、西洞院五条の邸宅を寺に改め、柳寺と称したのがこの寺のはじまりです。永亨年間(1429~1440)に、日存・日道・日隆・日慶らが、大宮通四条下ルに伽藍を移築造営し、妙法蓮華寺を卯木山妙蓮寺と改めました。山号の卯木山は「柳」に由来します。
その後、たびたび寺地をかえ、天正15年(1587)豊臣秀吉の聚楽第造営のとき、現在の地に移転しました。現存する建物は、天明の大火(1788)後の再建です。庭内の奇石は、臥牛石と言われ、秀吉が寄進したものと伝えられています。
長谷川等伯一派の筆といわれる濃彩の金碧襖絵は重要文化財の指定を受け、現在は宝物殿に収蔵されています。昭和56年(1982)より、書院には、幸野豊一氏画「四季の襖絵」が配置されています。
寺宝は他に、本阿弥光悦の筆による日蓮聖人の立正安国論写本(重文)などがあります。(宝物殿に収蔵)
境内には、秋から春にかけて、御会式桜(が咲き続け、冬から春にかけては、銘木・妙蓮寺椿が、5月はつつじ、8月~10月は、芙蓉や酔芙蓉などが境内を彩ります。(境内散策は無料)
住所:上京区寺ノ内通大宮東入ル(寺ノ内通堀川西入ル)
拝観:境内自由、方丈・庭500円、宝物殿をご覧になるにはご予約と別途300円(宝物殿拝観料)が必要になります。
時間:10時~16時
電話:075-451-3527
休日:毎週水曜日、年末年始 ※年間行事などにより拝観できない場合があります。詳しくは拝観(観光案内)をご覧ください。
十六羅漢石庭 じゅうろくらかんせきてい
桂離宮の造営を指図した妙蓮寺の僧 玉淵坊日首の作庭。
中央の青石は、臥牛石といい、豊臣秀吉公によって伏見城から移された名石である。
火災による損傷が激しかったが、近年に至って造園当時の姿に復元された。
白砂は、宇宙を現し、浮かぶ石は、青石が永遠の仏陀(久遠の本仏)で、他の石は、真理に呼応する地涌の菩薩を現している。
お互いが感応道交している姿を波紋で表現している。
十六羅漢石庭 は 法華曼荼羅(の世界観を表していた!
桂離宮の造営に携わった妙蓮寺の僧侶 玉淵坊日首(の作庭。
中央の青石は、四国産と言われているが、伏見城から移築したものと伝えられている。
日首が伏見城で豊臣秀吉と歓談中、褒美になにかやろうと言われて、
「この庭にある臥牛石(を所望したい。ただし、愚僧が妙蓮寺に帰り着くまでに運び込んでおいてほしい」と答えたところ、「よし、わかった」と。
日首が帰ってみると、ちゃんと運び込んであったという逸話が残っている。
時の権力者、秀吉の権勢には不可能がないという逸話である。
さて
この庭には、奇妙な点がいくつかある。それらを解説しながら、謎を解いてみよう。
1、法華宗の寺院なのに、十六羅漢の石庭といわれるこの庭は、禅宗洋式の枯山水(で、ほとんど植木を使わない手法で作庭されている。(周囲の植木は後世のもの)
2、羅漢(を取り上げるのは、法華宗の宗義から、かけ離れている面がある。
この矛盾から解読していくと、
①法華宗は、妙法蓮華経といわれる経典を正依(の経典とする。そこには、「インドの釈迦」や、その直弟子である「羅漢」に対して、永遠の過去から永遠の未来まで時空を越えた存在である「久遠実成の釈迦(」が説かれ、本弟子である永遠の過去からの弟子である「地涌の菩薩(」たちが説かれる。
日首は、妙蓮寺の僧侶であり、法華経については精通している。
その点から考えると、この十六羅漢の石庭の意味するところは、やはり法華経の世界観を顕していて、中央の大きな臥牛石は、久遠の釈迦を表し、他の石群は、地涌の菩薩を表していると解釈するのが妥当。
②周囲の白砂は、釈迦の呼びかけに応じて、地面より湧き出ずる地涌の菩薩たちの波紋、そして、宇宙空間(宇宙大法真理)を表現している。
アメリカ人の観光客が、中央の青石(臥牛石)を見て、スペースシャトルだと言ったが、それは臥牛石がスペースシャトルに似ているからであって、宇宙を意識したわけではないが、奇しくも、「宇宙」が共通しているのが面白い。
③中央の青石が釈迦(久遠の釈迦)だとすると、羅漢(地涌の菩薩)は15人しかいないことになってしまうが、何故か?
④また、この庭は、ある方角から観ると、普賢菩薩・(象が象徴)や文殊菩薩・(獅子が象徴)が配置してある。(そのように見える石が配置されている)
法華宗の思想から言えば、普賢菩薩(象が象徴)や文殊菩薩(獅子が象徴)は、迹化(の菩薩といって、本来の永遠の過去からの弟子ではない。それらの菩薩衆が含まれることは、地涌(の思想を表現しただけでなく、日蓮大聖人が感得された法華曼荼羅(の世界観を顕しているのではないだろうか。
⑤つまり、地獄界から仏界に至るまでの、一切衆生・(地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界の十界)と地涌の本弟子たち(上行菩薩(・無辺行菩薩(・浄行菩薩(・安立行菩薩(で代表される四菩薩)と、釈迦仏(と多宝仏(の2仏が、救われている法華曼荼羅を表現しているのではないか。
そうすると、ちょうど、石の数も、十界の衆生10 + 地涌の菩薩4 + 二仏2 すなわち
10+4+2=16となる。
⑥これが日首のいいたかった表現ではないのだろうか。
⑦総合すると、「本仏と地涌の菩薩が感応道交している八品思想(」を表すとともに、「久遠実成(の法華思想」を表しているのではないだろうか。(一考察)
赤穂義士の墓(遺髪)
妙蓮寺の墓地は、境内を入って、まっすぐ奥に進み、方丈と呼ばれる本坊の右手をさらに、奥に入ったところにあります。
檀信徒のご先祖をお祀りしてある霊場ですので、静かに、立ち寄ってください。
お墓番さんがおられますので、一言お声をかけてくださいね。
この写真は、老朽化のため、再建された赤穂義士のお墓です。
また、正面の本山貫首の歴代墓の中央にお線香を立てる石製の器がありますが、ここの四方には、歌舞伎各家の銘が刻まれています。
赤穂浪士のお墓とあわせて考えると、忠臣蔵を上演するときには、ここに参拝したものでしょう。
近年、上演前のお参りは途絶えています。
妙蓮寺椿
妙蓮寺椿について
薬学博士 嶋田玄弥(1982年寄稿)
つばきは本来日本特産の植物である。椿と書いて吾等は「つばき」と訓んで居るが、これは春咲く 樹というところから日本で作った国字である。中国にも椿なる字があるが別なもので、正しくツバ キを意味するなら「山茶」とせねばならぬ。山茶と書くと何だかこれに花を加えて山茶花とし、サ ザンカとよませることがあるが正しくはサザンカは茶梅でなければならない。
我々の先祖が南から段々北上して来たが、それらの人々が春になると紅い花を咲かす椿を見て昔 の故郷を偲んだに違いない。木偏に春をつけて椿とした事はこの樹を表わし得て妙である。
つばきは葉にツヤがあるところから、艶や葉木が転じ「や」が脱けてツバキなったとも謂われ、又 一説では葉が厚いところから厚葉木と言ったが、由来「ア」という音が抜けさることが多い。アメリカの「ア」は抜けてメリカまたはメリケンとなる。恐らく厚葉木の「ア」の脱けたものツバキと なったと考えられる。
つばきは花が第一であるが、その種子から得られる油即ち椿油は婦人の整髪料として貴重なばか りでなく、食用油としても極めて良質のもので、更に上古は不老長寿の霊薬として尊重された。
勃海使が来朝したとき椿油一缶を遣わされたこともあり、秦の始皇帝が東海の一孤島、即ち日本に 不老延年の霊薬を求めに使者を出した。その求めた霊薬の中にもその椿油があったに違いない。
材は堅く粘りがあり細工物、彫刻にうってつけである。更にこれより作った墨も堅く金属類を磨 くに重用せられる。
京都の寺院には昔から椿を尊重し、広く活け花に殊に茶花として愛用された。その一つに「妙蓮 寺椿」がある。
この樹は、妙蓮寺の一塔頭玉龍院が預かり愛で育てて居たが、1962年に火災に遭い焼失してしま った。
妙蓮寺の什宝として伝えられた「妙蓮寺記」なるものに「洛陽妙蓮寺境内図」という部分があり、 昔の境内の模様本堂、鐘楼、玄関、庫裡、廊下それに寺内の塔頭全部が記され、玉龍院と記された その傍らに「椿の木」と書かれていて、昭和30年頃には立派な椿として年々花を咲かせていた。 又別の所には、宗祇の「妙蓮寺椿」の図と賛との掛軸の写しが載せられている。そして妙蓮寺椿の 一枝を写生し、「余乃花はみな末寺なり妙蓮寺」と賛し自然斉宗祇と自署している。
因みに宗祇(1421~1502)は室町時代の人、多才な中でも連歌師として有名でその在京時代、妙 蓮寺は皇室と関係深い日応僧正を迎えて隆盛を極めた時と一致し、妙蓮寺椿を讃じたものと思われ る。即ち妙蓮寺椿は此の時すでに在り、その時からでも五百年以上の歴史がある訳である。
妙蓮寺椿は本来紅のやや濃い大中輪、花弁は4~5枚、抱え咲き、輪心の蕊は茶釜式でなくやや 開く、但し梅心ではない。妙蓮寺の花があまりにやかましく茶人の間にもてはやされるので、白い ものでも妙蓮寺に近い花を白妙蓮寺と言って売り出したものではないかと思う。更に赤い絞り樣の ものもあるが別物であろう。
京都に於ける有名ないわゆる一流椿は二、三十に及ぼう、何れも夫夫の来歴を持ち大切に守られ て居る。その中には恐らく第二世あるいは第三世の樹ではないかと思われ、来歴の年数に合わない ものもないではないが、それでもその場所に植えられて居ると立派に格服がつき、一応それと見て 納得し得るのである。
最後に、妙蓮寺椿が昭和56年(1981)の日蓮大聖人第七百御遠忌の砌に、本家妙蓮寺に第二世 としてお迎えになるということを聞き及び、誠に喜ばしいことと感ずると同時に、永くその美しさ を境内に保つことを祈るものである。
御会式桜 おえしきざくら
10月13日の日蓮大聖人御入滅の日、前後から咲き始め、年をまたいで、4月8日のお釈迦様の聖誕日ごろ満開となる珍しい桜です。
この桜の散った花びらを持ち帰ると「恋が成就」すると言われています。
決して、枝を手折るようなことはしないでください。
手折った恋は実りません。
芙蓉
境内には芙蓉が多く、酔芙蓉は朝白く咲き、徐々に赤味を帯び、翌日には真赤な蕾のような形になり、その形のまま地に落ちます。
種類は、一重ピンク・一重白・一重酔芙蓉・八重酔芙蓉・くす玉芙蓉・二重ピンク・一重濃ピンクがあります。
妙蓮寺鐘楼
妙蓮寺鐘楼について
工学博士 桜井敏雄(1982年寄稿)
妙蓮寺鐘楼は国の重要文化財に指定されていないけれども、様式的にみて江戸時代初期に 建立されたもので、全国的にみても数少ない本格的な袴腰鐘楼で日本建築史上、江戸時代を 代表する貴重な遺構である。
鐘楼の建立年代については明らかではないが全体の形態と細部の手法、意匠から江戸初期 のものと推定される。
桁行二間、梁間二間、入母屋造本瓦葺で平に扉を設ける。
石造基壇上に建ち、袴腰上端に接して台輪を置き、禅宗様三手先組物を重ねて刎高欄つき の廻縁を支え、中備に蓑束と上に捨斗をおく。
柱は総円柱で上端に粽をつけ、内法、腰、下長押を打ち、頭貫を通し先端を木鼻として台輪 で固め、内法、腰長押間の各間に和様の連子窓をはめる。軒下組物も禅宗樣三手先であるが 軒支輪(他は小天井)、尾垂木、拳鼻つきとしている。軒は二間繁垂木で六枝掛、隅で尾垂 木二本を入れて隅木持送りに彫刻入り手挟をはめ、飛檐隅木先端に雨覆いをのせる。
屋根は本瓦葺で大きく、大棟、降棟、隅降棟に夫夫鳥衾つき鬼瓦を置く。
妻飾は虹梁大瓶束で拝みに三花懸魚を飾る。
このように本格的手法になる丁寧な造りの鐘楼であるが、江戸時代の好みに合わせて屋根 を大きくし、しかも腰組が三手先であるためまとまりは袴腰部分に比して上部が大きくなり、 稍不安定な反面、全体として重厚感を与えるのは工匠の非凡な能力を示すものであろう。
細部を見ると、腰組の蓑束や頭貫木鼻、軒組拳組や隅木上の持送りなどの絵樣、彫刻等は、 すべて江戸時代初期の年代的特色をよく現している。肘木は和様の曲線を示し、廻縁は木口 縁を擬している。軒組の小壁を連子に造る例は珍しいが、大徳寺鐘楼(慶長十四年〈1609〉 建立ー重要文化財)に類例がある。全体として和様と禅宗樣の二つの様式が巧みに折衷され ており、斗共や連子で垂直感を出しながら、重厚な軒廻りと長押、台輪、頭貫、高欄、廻縁 などの水平材によってこれを押さえて調和を保ち、優秀な鐘楼建築である。
なお、京都府下に現存する重要文化財指定の袴腰鐘楼は、前述の大徳寺のものの他には、 東福寺鐘楼(室町時代中期)、仁和寺鐘楼(江戸時代初期)、酬恩庵鐘楼(江戸時代初期) の三棟があるのみであり、これをもつて妙蓮寺鐘楼の重要性が確認されよう。
山門
この山門は、天命の大火 天明8年(1788)で消失した後、文政元年(1818)に禁裏(御所)より拝領したもので、両袖(小門が両方についている)番所付きは、稀に見る格式高いものです。
御所塀といわれる横5本の白漆喰の線が入った塀も、禁裏から許されないと、建造できなかったようです。
山門は薬医門と呼ばれ、通常前側2本、後ろ側2本の4本の柱で屋根を支えるのですが、薬医門は屋根の中心が棟の中央に位置せずに、やや前方にきます。
そのため、前方の柱が太く加重を支える構造になります。
妙蓮寺の薬医門は2丈6尺(約8m60cm)の大きな門です。